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情報屋File #218 テロとの戦い、決意新たに


テロとの戦い、決意新たに

皆さん こんにちは! 情報屋です!  今日の注目記事をご覧下さい。
(jiji.com)より転載。
(引用開始)


テロとの戦い、決意新たに=国防総省追悼式で米大統領

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は11日、大統領就任後初の同時テロ追悼式の演説を、ハイジャック機が激突した首都ワシントン郊外の国防総省で行った。オバマ大統領は「われわれへの野蛮な攻撃を行い、さらに(攻撃を)たくらむ者たちと戦う決意を新たにしよう」と述べ、テロとの戦いの重要性を訴えた。
 オバマ大統領は「(国際テロ組織)アルカイダとその仲間の過激派の追跡をためらうつもりはない。米国を守る仕事は決して終わらない」と語り、団結を訴えた。
 同時テロでは、乗っ取られたアメリカン航空77便が国防総省庁舎に激突し、乗客乗員59人と同省職員125人の計184人が犠牲になった。
 式典に先立ち、オバマ大統領とミシェル夫人はホワイトハウスで、世界貿易センタービルに最初のハイジャック機が突入した時刻に合わせて黙とうをささげた。(2009/09/12-00:21)

(引用終了)
(2009年9月12 jiji.com

関連動画 (PC視聴可能)
(英語)



Documentary. 9/11 Justice. @ Yahoo! Video


アメリカ同時多発テロ事件
アメリカ同時多発テロ事件(アメリカどうじたはつテロじけん)は、2001年9月11日にアメリカ合衆国で発生した、航空機を使った4つのテロ事件の呼称である。航空機によるテロとしては未曾有(みぞう)の規模であり、全世界に衝撃を与えた。

名称について
日本では、この事件を「同時多発テロ事件」または「9.11テロ(事件)」と呼ぶ。2005年にイギリス・ロンドンでロンドン同時爆破事件が発生したため、「アメリカ同時多発テロ事件」と呼ぶことが増えた。

イギリスやアメリカ合衆国などの英語メディアでは、この事件を「9/11」(ナイン・(オー)・イレブン)、「9月11日の事件」 (Events of September 11)、 「September Eleven Terror Attacks」などと呼ぶ。ただし中南米では9.11はチリで1973年9月11日に発生したアウグスト・ピノチェトらによるクーデターを指すこともある。

ハイジャックされた旅客機
2001年9月11日朝(現地時間)、マサチューセッツ州ボストン、バージニア州ダレス(ワシントンD.C.近郊)、ニュージャージー州ニューアークを発った4機の旅客機が、モハメド・アタを中心とするアラブ系のグループによってほぼ同時にハイジャックされた。彼らは操縦室を乗っ取り、自ら操縦し、2機をニューヨーク・マンハッタンへ、残りの2機をワシントンD.C.へ向かわせた。

なお、乗っ取られた4機のうち2機がアメリカ合衆国のボーイング社製のボーイング767型機で、残りの2機がボーイング757型機である。この2種類の機体は、運行する航空会社のパイロットに互換性を持たせるために、コックピットの操縦システムは基本的に同じものが使われており、いずれも2人のみで操縦できるため、意図してこれらの機体が運行されている便が選択されハイジャックされたと考えられている。

また、一部のハイジャック犯たちはアメリカ合衆国国内にある民間の航空学校で小型機の自家用操縦免許を取得した上、これらの機体の操縦方法を事前にフライトシミュレータで訓練していたことが明らかになっている。

これら4機がいずれも北米大陸横断ルートという、アメリカ合衆国国内線の中では長距離飛行に入るルートを飛ぶものであったのは、いずれも燃料積載量が多く、衝突後の延焼規模を多くすることを狙ったと推測する者もいる。なお、ハイジャックされ墜落させられた旅客機の乗客・乗員は全員死亡している。

アメリカン航空11便
ボストン(ローガン国際空港)発ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きアメリカン航空11便(ボーイング767-200型機・機体番号N334AA)は、乗客81名・乗員11名を乗せて、午前7時54分に遅延出発した。午前8時14分頃にハイジャックされ、コックピットを乗っ取られたらしい。午前8時23分に進路を急に南向きに変え、午前8時46分にニューヨーク世界貿易センターの超高層ビルであるツインタワー北棟(110階建)に突入し爆発炎上。水平で高速で建造物に衝突したため、離着陸時の事故と違い機体の残骸はほとんど原形をとどめなかった。

衝突の瞬間をフランスのテレビ局から取材に来ていた兄弟のカメラマンが偶然撮影した。ビル近隣にある消防隊の平凡な日常を描くはずであった彼らの番組は、やがて未曾有(みぞう)の事件に対峙する消防隊の活躍を記録するドキュメンタリー番組となり、日本やアメリカを含む世界各国で放送された。

ユナイテッド航空175便
ボストン(ローガン国際空港)発ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きユナイテッド航空175便(ボーイング767-200・N612UA)は、乗客56名・乗員9名を乗せて、、午前8時14分に遅延出発した。管制部とアメリカン航空11便のハイジャックに関する交信を交わした後、午前8時43分頃までにハイジャックされ、コックピットを乗っ取られたらしい。直後にアメリカン航空11便を追うようにニューヨークへ進路を変え、午前9時3分に世界貿易センタービルのツインタワー南棟(110階建)に突入し爆発炎上。水平で高速で建造物に衝突したため、離着陸時の事故と違い機体の残骸はほとんど原形をとどめなかった。

11便の突入ですでに多くの報道陣と見物人がビルの周りに集まっていた他、報道陣のヘリコプターも周辺を飛行しており、続く175便の突入では数多くの映像と写真が記録された。

アメリカン航空77便
ワシントンD.C.(ダレス国際空港)発、ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きアメリカン航空77便(ボーイング757-200:N644AA)は、乗客58名・乗員6名を乗せて、午前8時20分に出発した。午前8時50分ごろまでにハイジャックされ、コックピットを乗っ取られたらしい。直後に進路を北向きに変えた後、南へ転回、その後東へ進路を変えた。最初の進路離脱から3分間は管制塔と機長が交信していたが、通信不能となった。そして午前9時38分、バージニア州アーリントンにあるアメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突し、爆発炎上した。激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録され、付近を通行中の多くのドライバーや歩行者によって激突の瞬間が目撃された。映像によるとほぼ水平の状態で地面を滑走しながらペンタゴンに衝突したらしい。水平で高速で建造物に衝突したため、離着陸時の事故と違い機体の残骸はほとんど原形をとどめなかった。

なお、77便はホワイトハウスに向かおうとしたが太陽の反射で前が見づらく、たまたま近くにあったペンタゴンを狙ったのではないかという説もある。

ユナイテッド航空93便
ニューアーク(ニューアーク空港)発サンフランシスコ(サンフランシスコ国際空港)行きユナイテッド航空93便(ボーイング757-200、N591UA)は、午前8時42分、乗客37名(4人のテロリスト含む)・乗員7名を乗せて、滑走路の混雑で41分遅延で出発した。93便離陸のわずか数分後、アメリカン航空11便が世界貿易センターに激突した。

乗客の機内電話からの通報によると、午前9時27分にハイジャックされ、コックピットを乗っ取られたらしい。オハイオ州クリーブランド付近で進路を南に変え、さらに南東へ向かった。ワシントンへ向かうことを管制官に通告、標的はアメリカ合衆国議会議事堂かホワイトハウスであったと推測されている。

午前9時57分、機内電話や携帯電話による外部との連絡で、ハイジャックの目的を自爆テロと認識した乗客が機の奪還に乗り出す。午前 10時3分、ペンシルベニア州シャンクスヴィル(ワシントンD.C.北西240kmの場所)に、時速9,33lm(時速580km)の対気速度で墜落した。公式の調査報告書では、乗客はコクピット内に進入できず、テロリストの操縦により機体を墜落させたと結論づけている。なお、地震計のデータから墜落の時刻を午前10時6分と公式記録と異なる報告がなされたが、後にこの時刻を算出した地震学者本人により撤回されている。また、93便には日本人大学生1名が搭乗しており、日本へ帰国する為にサンフランシスコへ向かっていた最中に巻き込まれた。

乗客たちがハイジャッカーたちに反撃した際に「Let's Roll(さあやろうぜ)」を合図にしたと言われている。この9.11事件以降のアフガニスタンへの「報復戦争」において、この「Let's Roll」は軍用機に描かれたり、空母乗組員が人文字を空中撮影する際に用いられたりするなど、しばらく「テロと戦うスローガン」とされた。

なお、離陸からハイジャック、墜落までの乗員乗客の行動を基にした映画『ユナイテッド93』として2006年に公開された(この映画ではハイジャッカーたちに対して反撃した乗客たちがコックピットに進入して、操縦桿をハイジャッカーから奪いとって機体を上昇させる寸前であったかのように描かれているが、公式発表では実際にそこまで辿り着けていない)。高速で地上に衝突したため、離着陸時の事故と違い機体の残骸はほとんど原形をとどめなかった。

被害

世界貿易センタービル
世界貿易センタービル・ツインタワーの北棟は、8時46分にアメリカン航空11便の突入を受けて爆発炎上した。この時点では多くのメディアがテロ行為ではなく単なる航空機事故として報じた。ジョージ・W・ブッシュ大統領も「第一報を受けた時点では航空事故だと考えた」と発言した。1機目の激突は、数日前から地元消防署の日常を取材していたフランスのテレビ局から派遣されていた兄弟によって偶然撮影(ガス漏れの通報があり、出動していた消防隊に同行していた)され翌日に報道されている。

続いて、9時3分に南棟がユナイテッド航空175便の突入を受け、爆発炎上した。2機目の激突は1機目の激突後に現場のテレビ中継を行っていた際に発生し、世界各国に1機目の衝突を臨時ニュースとして国際中継していた間に起こった事件であったため、前代未聞の衝撃的な映像を多くの人たちがリアルタイムで見る事になった(この時点で、事故ではなく故意に起こされた事件であることが認識された)。また、2機目の旅客機が激突する瞬間はプロやアマチュアを含む多くのカメラマンにて撮影されている。

ツインタワーは、建設当時の主力ジェット旅客機のボーイング707が突入しても崩壊しないよう設計されていたはずだった(衝突のダメージのみを換算されていたものであり、ジェット燃料の延焼による火災のダメージは換算されていなかった。だが、実際に高速で突入した同サイズのボーイング767によってビル上部は激しく損傷、漏れ出したジェット燃料は吹き抜けを通して下層階にまで達し、爆発的火災が発生した。次いで火災の熱による鉄骨の破断でタワーは強度を失い、9時59分に南棟が突入を受けた上部から砕けるように崩壊した。北棟も10時28分に南棟と同様、砕けるように崩壊した。かつて世界最高とされたツインタワーは両棟ともに完全に崩落した。

ツインタワーは、特に北棟で人的被害が大きく、死者は約1,700人(救護活動中の消防士を含む)であった。特に突撃を受けた92階以上に被害が多く、この階以上の在館者全員が死亡したと言われている。それは航空機に突入されたフロアの階段が大きく破壊され炎上し、避難経路が遮断されたためである。南棟も同様に激しく炎上したが、こちらは旅客機が外側に少し反れて激突し、反対側の階段が損壊や延焼を免れたため、突入フロア以上でも延焼の少なかった部分にいた十数名は無事避難することができた。また、突入前の未然避難者も含めると約7割の人が生還している。ただしこの時、炎上部より上にいた人の一部が、煙による苦痛や絶望感から飛び降りを行い、消防士や避難者の一部が落下してきた人の巻き添えになり命を落とした。また崩壊時の破片や煙により、ビル外でも数人が命を落としている。一方、タワー崩壊後も館内で奇跡的に生き残っていた人も数名おり、それらの人々は当日夕方に救助された。

北棟および南棟の崩落による影響で、敷地内の他の4つのビルも崩落・炎上し、8時間後に敷地北隣の高層ビル・世界貿易センター7号棟もともに崩落。道路は完全に封鎖、世界貿易センターの地下をターミナルとしていた地下鉄やパストレインもトンネルの崩落で走行不能に陥った。これらのことからニューヨークでは合計で2749人が死亡するという大惨事になった。

この事件以降、世界貿易センタービル跡地は「グラウンド・ゼロ(爆心地)」とも呼ばれている。

国防総省本庁舎
アメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)は9時38分にアメリカン航空77便(ボーイング757)の突入を受けた。大爆発が引き起こされてビルの一部は炎上し、10時10分に4階が崩壊、10時15分に1階までが全て崩壊した。77便の乗客・乗員全員が死亡し、189人の国防総省職員も死亡した。激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録され、すぐにFBIによって回収、調査された。

事故現場はボーイング757の機体の判別が困難なほど焼けたが、ビルの倒壊は5層になっているビル全体の1番と2番で抑えられた。また、この部分は長官執務室の反対側であり、ビルの補強工事中で普段よりも職員が少ないことが被害を抑えた。世界貿易センタービルへの突入の影響で情報は錯綜し、最初の報道は単なる爆発炎上というだけであったが、後に付近を通行中のドライバーや歩行者によってアメリカン航空機が北側から旋回して激突したとの目撃が証言された。

防空状況
テロ当日は北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)の年に一度行われる訓練の日であり、東海岸から離れた場所で万全の防空体制で訓練に当たっていたはずだった。しかし連邦航空局(FAA)からアメリカン航空11便ハイジャック発生の第一報が入ったのは8時40分(それ以前に入っていたという説もある)ごろで、マサチューセッツ州のケープコッド南西部にあるオーティス空軍州兵基地(Otis Air National Guard Base)からF-15戦闘機2機がスクランブル発進したのは8時52分だった。

スクランブル発進したF-15はアメリカン航空11便を追跡するよう命じられたが、発進した時11便はすでに突入した後だった。管制室は途中からユナイテッド航空175便を追跡させているという認識だったが、状況の把握が不十分で、パイロットも何を追跡しているか認識できていなかった。同機は一旦ロングアイランド湾で待機するよう命じられ、ニューヨーク上空への進入を命じられたのは175便が突入した後だった。しかしF-15には旅客機攻撃の権限が無く、突入を止めることは不可能だったとされる(進路妨害は可能だったという指摘もある)。

ワシントンD.C.には、ノースカロライナ州上空で訓練していたF-16戦闘機3機が呼ばれたが、飛来したところで基地への着陸待機を命じられた。3機はアメリカン航空77便の追跡を命じられ再度離陸したが、もともと訓練中だったために燃料が不足し始め、うちの2機は訓練用の模擬弾しか装備していなかった。9時30分に別のF-16が3機発進し、ワシントン近くに飛来したが、これらには攻撃用のサイドワインダーが装備され、旅客機撃墜の権限が与えられていた。しかし、結局77便に合流することは無く、9時38分にペンタゴンへの攻撃の阻止には至らなかった。

オハイオ州上空を飛行していたユナイテッド航空93便の付近で、積荷の搬送を行っていたC-130輸送機が、管制官から93便を捕捉するように命じられた。C-130は93便墜落の際、17マイル離れたところに位置していた。また、ワシントンD.C.から実弾を搭載した1機のF-16が93便の追跡に向かったという話もある。

NORADから10時6分にスクランブル発進命令があった2機のF-16が発進したのは10時16分だった。別の2機のF-16が93便を追跡していたという話もあるが、公式な発表にはない。さらに事故から約10分後に現場のはるか上空を戦闘機らしい航空機1機が通過するのを目撃された。NORADはFAAから93便墜落の報告を受けたのは10時15分で、10分近く93便の追跡を続けさせていた。

FAAがアメリカ合衆国中のすべての空港の閉鎖の措置を決定したのはツインタワーへの2度目の攻撃の直後からで、9時45分に全米の空港からの民間機の離陸が停止され、飛行中のすべての民間機は直ちに最寄の空港へ着陸するよう通告された。

首脳の動き
ジョージ・W・ブッシュ大統領はフロリダ州におり、小学校の授業を視察する予定だった。1機目のツインタワー攻撃の際には小学校へ向かう専用車の車中にいたが、このときは航空事故だと考えていたとされる。ただし、一時的にホワイトハウスとの間で電話会議が行われた。また補佐官ら周辺も同じように事故と考え、予定通り小学校へ入った。

授業視察中に2機目のツインタワー攻撃があり、補佐官から視察中のブッシュ大統領に「合衆国が攻撃されている」との報告を受けたが、ブッシュ大統領はすぐに動かずに7分間、小学生の朗読を聞いていた(この映像は後に『華氏911』などで取り上げられ、事態の深刻さを把握していなかったとされる大統領の対応が批判された)。また、隣室に待機していたシークレットサービスらも動かなかった。

朗読が終わるとブッシュ大統領は小学生を誉め、隣室で補佐官と話し、電話でライス補佐官と州知事に連絡した。その後、テレビカメラで国民へ呼びかけ、9時30分頃に小学校から出発し、3マイルのところにある空港へ向かった。エアフォース・ワンが離陸したのは9時55分である。このとき護衛の戦闘機は無かったが、このときアメリカ国内上空には、未だに連絡の取れない旅客機が11機あった。その後、空軍基地で事態の沈静化を待ち、夕刻にワシントンD.C.へ帰還した。

チェイニー副大統領と数人の閣僚、ライス国家安全保障担当補佐官(現国務長官)はホワイトハウスで執務を行っていた。彼らはツインタワーへの2度目の攻撃の直後、シークレットサービスにつれられて地下壕へ避難した。なお、未確認であるがホワイトハウスの屋上には防空用のスティンガーミサイルが備え付けられている。その後、閣僚らがヘリコプターで避難したのはユナイテッド航空93便が墜落した後だった。また、チェイニー副大統領は軍事補佐官に攻撃許可を求められ、ブッシュ大統領が不在の為、乗っ取られた飛行機の撃墜を許可した。しかし決定が出たのはユナイテッド航空93便が墜落した後だった。

ラムズフェルド国防長官は上級軍人と朝食をとった後、ペンタゴンの執務室へ入って議員と懇談していた。ラムズフェルド国防長官にツインタワー「攻撃」の知らせが入ったのは、ペンタゴン攻撃のわずか2分前であり、アメリカン航空77便がワシントンに向かっていることは知らなかった。また、平時のペンタゴンにはホワイトハウスのような防空装備が無い。攻撃の後、ラムズフェルド国防長官が建物の外へ出ると女性職員が血を流して倒れていた為、彼女を抱えて避難し、救急車が来るまで看病していた。現場から避難したのはその後で、数十分が経過していた。

パウエル国務長官は南アメリカのペルーを訪問中であったが、ツインタワーおよびペンタゴンへの攻撃の報告を聞いてすぐに帰国した。

ロシア連邦のプーチン大統領は、この一報に対し「アメリカ合衆国軍が必要な動員をかけたとしても、直ちにロシア連邦軍に迎撃体制を取らせることはない」とホットラインでブッシュ大統領に告げた。ロシア連邦軍にはソビエト連邦軍時代から継続して、アメリカ軍が大規模な動員をかけるとそれに反応する様に指揮系統が準備されている。

報道
同時多発テロ事件はテレビ、ラジオ、インターネットなどを通じて全世界にリアルタイムで伝えられた。連日、新聞や週刊誌なども最大級の扱いで事件を伝えた。

アメリカ市民の様々な反応

衝撃
この事件がアメリカ合衆国国民に与えた衝撃は当然大きかった。冷戦終結後、世界で唯一の軍事超大国としての絶対的な存在感を有していたアメリカ合衆国の本土が、他国から攻撃を受けることについて、アメリカ合衆国国民は強い衝撃を受けた。また、アメリカ合衆国がこれほどの衝撃のある武力攻撃を受けたのは、真珠湾攻撃以来であることを強調する論評も見られた。世界一の超大国であるアメリカ合衆国が、特定のテロリストグループないしはそれを支持する国からは、そこまでの嫌悪感を持って見られるということを、アメリカ合衆国国民は否応無く突きつけられ、余計に打ちひしがれることとなった。

その様な中、テロに対する報復は憎しみの連鎖を引き起こすだけだと、冷静さを取り戻し報復へ走らないようにすることを強調する人々もおり、アメリカ合衆国政府による報復攻撃を危惧する多くのミュージシャンは報復攻撃が行われていない時点で反戦のイベントを開催した。

愛国心
喪失感が充溢する中でアメリカ合衆国国民は、求心力を愛国的な意識を共有することに求め、速やかな報復を肯定する世論が形成されていった。具体的な物的証拠が挙げられないうちから、CNNなどのアメリカ合衆国の大手マスコミなどにおいても、イスラム原理主義を信奉するアラブ系人種によるテロ説が唱えられ(同じような事は、ミリシアによるオクラホマシティの連邦ビル爆破テロや、大韓航空機爆破事件、オウム真理教による東京の地下鉄サリン事件の際にも発生した)、流言に乗った市民によるアラブ系住民の暴行事件が多発、アラブ系男性が射殺される惨事にまで発展した。

これに対し、アラブ系アメリカ人には「Arabic Americans support U.S.(アラブ系アメリカ人は合衆国を支持する)」などと書いたと横断幕を自家用車に掲げ、アメリカ合衆国の味方であることをアピールした者もいた。事件発生直後のテレビ報道の中で、中東系の人々が勝ち誇ったように興奮する映像が流されるなど(本テロ攻撃との関係は全く不明)、いわゆる国家的陰謀論に結びつくような偏った報道が事件直後から行われていたとする説もある。

(大統領時代にはビンラディンを脅威と考えていた)前大統領であるビル・クリントンは、「同時多発テロ事件を見て、それが直ちにビンラディンによるものだろうと考えた」と後に述べており、方法はともかくとしても、アメリカ合衆国に対するイスラム原理主義勢力によるテロ攻撃の可能性は以前から意識されていたものである。

消防、警官隊員
炎上する世界貿易センターに取り残された人々を救出すべく命がけでビルに突入し、ビルの崩壊で命を落とした警官隊や消防隊員に対してその勇気と献身的態度を賞賛する声がアメリカ合衆国のみならず世界中から寄せられ、その遺族に対する募金や手紙も世界各国から寄せられた。

また、同じような賞賛は有毒物質が散乱する事件現場で遺体や遺留品の捜索を行った作業員たちにも同様に寄せられた。この様な中で、ニューヨークに在住している日本のミュージシャンの坂本龍一は、「再度テロ攻撃が起きた際に逃げられるように(高級SUVの)レンジローバーを買った」と雑誌内で発言し批判を浴びた。


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◆今日の格言(09/12)◆
人生の教訓がここに!偉人の名言・格言


・この素晴らしい応用科学は労働を軽減し、生活をより豊かにしながら、
なぜ我々に幸福をもたらしてくれないのか。答えは簡単である。
我々がそれを有意義に利用するにいたっていないからである。


アインシュタイン

◆今日の雑学(09/12)
ムダ!?で役立つ知識


電話発明で有名なベルはもう一つ偉大な事で名前を残している。それはアメリカを代表する科学雑誌『サイエンス』の創刊。

◆幸福の格言(09/12)
結局幸せって!?


幸福はまず何より健康のなかにある。

G・W・カーチス

(1)
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情報屋File #174 アキノ元比大統領:結腸ガンで死去


アキノ元比大統領

皆さん こんにちは! 情報屋です!  今日の注目記事をご覧下さい。
(mainichi.jp)より転載。
(引用開始)


アキノ元比大統領:結腸ガンで死去 マルコス独裁政権倒す

【マニラ矢野純一】結腸ガンで闘病中のフィリピンのコラソン・アキノ元大統領が1日早朝、マニラ首都圏マカティ市の病院で死亡した。76歳だった。「ピープルパワー」と呼ばれる民衆の力で86年2月、20年以上続いたマルコス独裁政権を倒して大統領に就任。東南アジアに初めて民主化をもたらし、ミャンマー(88年)や冷戦崩壊後の東欧の民主化運動に影響を与えた。退任後も、常に民衆の側に身を置き、反政府の運動に参加するなど「シンボル」的存在だった。

 アキノ氏は昨年3月、結腸ガンで闘病中だと公表して以来、入退院を繰り返していた。食欲がないとして、6月24日に入院、集中治療室に入っていた。

 裕福な政治家の家庭に生まれたアキノ氏は、54年にベニグノ・アキノ元上院議員と結婚。反マルコスを掲げていた夫が83年8月、亡命先の米国から帰国直後に空港で暗殺されて以降、普通の主婦から、政治の場に担ぎ出された。

 86年2月の大統領選ではカトリック司教協議会の支援を受けたアキノ氏と、当時現職のマルコス氏が立候補し、選管と民間の選挙監視団体が別々の結果を発表した。マルコス政権に反発した国軍幹部が決起し、民衆も巻き込んだ「ピープルパワー」が起こり、アキノ氏が第11代大統領に就任した。

 6年間の在任期間中は、強固な政治基盤を持たなかったために、政権内で求心力が低下。任期中に発生した7度のクーデターに対応するうちに、軍の発言力が高まった。また、農地改革なども十分に行われず、国民に不評を買った。

 引退後は、政治の一線から身を引いていた。しかし、01年に当時のエストラダ大統領を追放した「ピープルパワー2」や、最近では、改憲を推し進めようとするアロヨ政権に反対する運動にも加わり、一定の発言力を維持していた。

(引用終了)
(2009年8月01 mainichi.jp) 

(注意) 冷戦崩壊の民主化運動に多大な影響を与えた。冷戦を終結させた民主化運動とも言われています。 

関連動画 (PC視聴可能)
(英語)




アキノ元比大統領
コラソン・アキノ(Corazón Aquino, 1933年1月25日 - 2009年8月1日)は、フィリピン共和国第11代大統領(在職1986年 - 1992年)。元上院議長の夫ベニグノ・アキノ・ジュニア暗殺後、フェルディナンド・マルコス大統領に対抗した。通称はコリー。学歴はマウント・セント・ビンセント大学文学部卒業。学位は文学士(マウント・セント・ビンセント大学)。称号は名誉法学博士(早稲田大学)。

生い立ち
コラソン・アキノは1933年、フィリピンタルラック州(Tarlac)の富裕な華人の家に生まれた。祖先は福建籍の客家である。結婚前の正式名は María Corazón Sumulong Cojuanco。1953年に、アメリカのニューヨーク州のマウント・セント・ビンセント大学を卒業。(フランス語専攻)

ベニグノ・アキノの妻に
1955年、22歳にしてタルラック州コンセプション市長であったベニグノ・アキノ・ジュニアと結婚した。夫ベニグノ・アキノ・ジュニアはその後、州知事から上院議員となったが、マルコス大統領と対立し、1980年、アメリカ・ニューヨークに亡命した。1983年、マルコス独裁打倒のため帰国したところマニラ国際空港で暗殺され、妻のコラソン・アキノが急速に反マルコス独裁の象徴となっていった。

大統領
1986年2月に行われた繰上げ大統領選挙に出馬し、マルコスもアキノも勝利宣言をする。この時、エンリレ国防相やラモス副参謀長ら国軍改革派が決起し、100万の市民がこれを支持して通りを埋め尽くしたため、マルコスは権力を失い、コラソン・アキノが大統領就任を宣言、マルコス夫妻はハワイへの亡命に追い込まれた。これをエドゥサ革命、またはピープル・パワー (people power) と呼ぶ。

大統領在職中はしばしば国軍のクーデター未遂事件が起こった。1991年にピナトゥボ火山が大爆発し、被害は中部ルソン一帯に広がった。同年アメリカ軍のフィリピンからの撤退も決まった。

退任後
1992年任期切れで職を去り、1986年の革命で国軍改革派として活躍したフィデル・ラモスが後継となった。その後、日本の三洋電機の社外取締役をしたことがあり、その後は最高顧問を務めたが同社の経営不振のあおりを受けて2007年3月末日で辞任した。

2008年3月に結腸癌であることを公表し、闘病中だったが2009年8月1日に卒去。76歳没。

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◆今日の格言(08/01)◆
人生の教訓がここに!偉人の名言・格言


人生は外国語だ。たいていの人間はそれを間違って発音する。

クリストファ・モレイ

◆今日の雑学(08/01)
ムダ!?で役立つ知識


マゼランは世界一周で知られているが、彼自身は途中で殺されてしまい帰還していない。

◆幸福の格言(08/01)
結局幸せって!?


幸福、それは君の行くてに立ちふさがる獅子である。たいていの人はそれを見て引き返してしまう。

ヒルティ

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趣味のフォーラム







情報屋File #173 アンネの日記


アンネの日記

皆さん こんにちは! 情報屋です!  今日の注目記事をご覧下さい。
(jiji.com)より転載。
(引用開始)


「アンネの日記」が世界記憶遺産に=貴重資料計35点を追加−ユネスコ

国連教育科学文化機関(ユネスコ)は30日、世界の貴重な資料の保存と認知度向上を目的とした「世界記憶遺産」に「アンネの日記」が登録されると発表した。
 「アンネの日記」は、アンネ・フランクが第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害を逃れて送った隠れ家生活の記録。ユネスコは「世界中で読まれた書籍トップ10のうちの1冊」としている。
 今年はこのほか、英国憲法の基礎となった「マグナカルタ(大憲章)」や、タイの近代化に尽力した元国王ラマ5世(チュラロンコン王)の政策を記した文書など35点が新たに加わる。(2009/07/31-11:12)

(引用終了)
(2009年7月31 jiji.com

関連動画 (PC視聴可能)
(英語)

アンネの日記とは
『アンネの日記』(アンネのにっき)は、ドイツ系ユダヤ人少女アンネ・フランクによる日記様の文書。第二次大戦の最中、ナチス・ドイツ占領下のオランダ・アムステルダム。ナチスの追及をかわし、隠れ家に潜んだ8人のユダヤ人達の生活を活写したもの。執筆は密告(密告者の詳細はいまだ不明)によりドイツ秘密警察に捕まるまでのおよそ2年間に及んだ。彼女の死後、父オットー・フランクの尽力によって出版され、世界的ベストセラーになった。

内容
1942年6月12日から1944年8月1日まで記録されている。

アンネの日記は、一少女の内的葛藤と成長を描き出した作品であるとされている。第三者(アンネはキティーと呼称)に宛てた手紙を模した独特な表現スタイルは、内面の吐露をより印象深いものにする。特に際立つのが、早熟さ、そして鋭い観察力と批判精神である。それは時に、他者に対して辛辣過ぎる程ですらある。

作中に、何か決定的なドラマがあるわけではない。むしろ逮捕以後の悲惨さとは対照的に、幾つかのエピソードを除いて、他愛のない日常が記録されているに過ぎない。戦争、そしてゲシュタポの影に怯えながらも、作品全体を貫く印象は明るく、時に絶望することがあってもそれに押し潰されることはない。隠れ家という閉塞された空間の中でも、将来への希望を失うことはないのである。

しかし、その将来が無残に断ち切られることによって悲劇性が加速する。作品は、若年者が戦争、人種差別、ホロコーストなどについて考える一助となっている。

主な登場人物
主要な登場人物はアンネと一緒にアムステルダム市プリンセンフラハト263番地の隠れ家に隠れていた7人の同居人である。

アンネ・フランク(日記上では「アンネ・アウリス」のち「アンネ・ロビン」名を名乗る。逮捕後、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で死亡)
オットー・フランク(アンネとマルゴットの父。逮捕された後も戦後まで生き延び、娘アンネの日記を出版した)
エーディト・フランク(アンネとマルゴットの母。オットーの妻。しばしばアンネと衝突したことが日記から窺われる。逮捕後、アウシュヴィッツ強制収容所で死亡)
マルゴット・フランク(アンネの姉。日記からはペーターとアンネの関係に複雑な思いを寄せる様子が窺える。逮捕後、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で死亡)
ペーター・ファン・ペルス(アンネと恋愛関係になる少年。ただ二人の関係はキス止まりだった。日記上では「アルフレート・ファン・ダーン」。逮捕後、マウトハウゼン強制収容所で死亡)
ヘルマン・ファン・ペルス(ペーターの父。日記上では「ハンス・ファン・ダーン」。日記からはフランク一家と摩擦が多かった事が窺われる。逮捕後、アウシュヴィッツ収容所で死亡)
アウグステ・ファン・ペルス(ヘルマンの妻、ペーターの母。日記上では「ペトロネッラ・ファン・ダーン」。ヘルマン同様フランク一家と摩擦があったことが日記から窺われるが、コミカルな性格が描写されている事も多い。逮捕後、死亡するがいずれの収容所へ送られたか不明)
フリッツ・プフェファー(歯科医。日記上では「アルベルト・デュッセル」。愛人がいたが、愛人はユダヤ人でないため、一人だけで隠れ家に合流。アンネと折り合いが悪く、日記の中で頻繁に悪役にされる。逮捕後、ノイエンガンメ強制収容所で死亡)

日記の成立
1944年8月4日の午前10時から10時半頃、隠れ家に潜んでいた8人のユダヤ人は、何者からかの密告を受けて出動したアムステルダム駐留の保安警察(SD)の職員たち(カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー親衛隊曹長と数名のオランダ人ナチ党員)によって逮捕された。彼らを匿っていたヴィクトル・クーフレルとヨハンネス・クレイマンの2人も連行された。しかし女性だったミープ・ヒースとエリーザベト・フォスキュイルは逮捕を免れた。

逮捕されたユダヤ人8人の中で戦後を迎えることができたのは、オットー・フランクのみである。アンネを始めとした他のユダヤ人7名はそれぞれの移送先の強制収容所で死亡した。

保安警察が去ると、ミープ・ヒースとエリーザベト・フォスキュイルは床の上に散乱した文書をすぐに回収した。それらのテキストは、戦後アムステルダムに戻ったオットーに渡された。彼はこの文書を編集してまとめ、アンネやフランク一家をよく知る人のために私家版として配った。やがてこの文書の存在は広く社会に知られるようになり、周囲の声に推され、本格的な出版に踏み切ることになる。最初の版1947年にオランダのコンタクト社から発売された。

アンネは隠れ家のことを、その形から『ヘット・アハターハウス(Het Achterhuis=直訳すると「後ろの家」)』と名づけていたが、これはオランダ語版の『日記』のタイトルとなった。

各国語への翻訳
『アンネの日記』は世界中でベストセラーになった。翻訳された言語は55言語、出版部数は2,500万部を超えるといわれている。

日本でも1952年に文藝春秋から皆藤幸蔵の訳で『光ほのかに - アンネの日記』のタイトルで出版された。その後『光ほのかに』という訳書が他に存在することが判明し、副題の『アンネの日記』が日本語での正式なタイトルとなった。2004年現在、同じく文藝春秋からは深町眞理子訳出のものがラインナップされている。しかし出版当初は、日本がこの書物を発行する事に対する風当たりが極めて強かった。なぜなら日本は、ナチスドイツの同盟国でありアムステルダム市民からは「アンネを殺したナチスと日本は同罪だ」という考えを持たれていたからである。現に訳者の1人がアムステルダムの本屋でアンネに対する文献を探していたところ、市民連中から「お前ら日本人に、アンネの事が分かってたまるか!」と店からつまみ出されたり、本屋によっては「日本人にはアンネの書物は売れない」と拒否されたりしている。

日記のオリジナル性
作家志望だったアンネ・フランクは、手始めに自分の『日記』を出版することを考えており、書き溜めたものを推敲する作業を自ら進めていた。よって、日記にはオリジナル原稿と、彼女自身の清書による改訂稿の二つが存在する。これらはどちらも完全な形では残っておらず、アンネの死後、オットー・フランクによって、オリジナル原稿と改訂稿を相互補完する形で縮約編集された。いわば私家版である。

出版に当たっては、編集の過程で第三者によるさらなる本文の削除や訂正などがあった。削除箇所の多くは母親への辛辣な批判である。その他に第三者に関する批判(ファン・ペルス夫妻など)、若干の退屈なエピソード、性の目覚め、存命中の者のプライバシーを守るための配慮などがあった。上記のような編集が加えられたことにより、書店に並んだ日記はアンネ・フランクが書いたものと一字一句同一とはいえないが、内容は概ねアンネ・フランク自身のものと一致しており、1960年及び1981年の文書鑑定では、「これらの編集作業は日記のオリジナリティーを損なうものではない」と結論付けられた。オットー・フランクの死後、原本はオランダ国立戦時資料研究所に寄付され、そこで科学的調査がおこなわれた。その結果、原本に使われている紙・インク・糊は当時のオランダで入手可能なものであり、原本自体はアンネ自身によって書かれたものであると最終報告された。また1990年、ハンブルク地方裁判所は、原本が真筆であると結論した。

なお、削除箇所については後の版で増補されており、2004年現在、原テキストに近い形で刊行されている。また、原本を保管しているオランダ国立戦時資料研究所による「アンネの日記 研究版」では、3種のバージョンの比較、日記の信憑性に対する攻撃の経緯、筆跡鑑定、インクや紙に関する科学的調査などについて研究結果が詳述されている。

日記の真贋に関する論争の歴史
第二次世界大戦後10年の間にアンネ・フランクの名が広く知れ渡り、ナチスの残虐行為が明らかになるにつれ、まずホロコースト否認論者により、アンネへの中傷や、アンネの存在自体への懐疑、日記の信憑性に対する疑問が呈された。

1958年、「アンネが実在したというならば、アンネを捕まえた人間を見つけ出してみせろ」というホロコースト否認論者からの主張を受けて、ナチ・ハンターとして著名なサイモン・ヴィーゼンタールは、アンネらを逮捕した人物の調査を開始した。ヴィーゼンタールはその人物、元ゲシュタポで、オランダではナチス親衛隊保安部(SD)曹長をしていたカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーを1963年に探し出し、アンネが実在したことを証明した。インタビューによって、ジルバーバウアーは戦時中の行為をすぐさま認め、アンネ・フランクの写真を見て、彼が逮捕した人々の一人であると確認した。彼の供述は、オットー・フランクらの供述と合致した。

1959年、アンネの日記は捏造であると勤務先の学校内文書に書いた、元ヒトラーユーゲントで、当時は教師をしていたローサー・シュティーラウに対して、オットー・フランクはリューベックで訴訟を起こした。1960年、裁判の結果、法廷は日記が本物であるとの裁定を下した。シュティーラウは主張を撤回し、オットー・フランクはその件についてそれ以上の追及をしなかった。

1970年代中頃、イギリスのホロコースト否認論者デイヴィッド・アーヴィングは、日記は偽物であると表明した。

1976年、日記が偽物であるというパンフレットをフランクフルトで配布したハインツ・ロースに対して、オットー・フランクは訴訟を起こした。裁判所は、ロースがこれ以上そのような声明を出版した場合、50万ドイツマルクの罰金と6ヶ月の懲役を科すとの裁決を下した。1978年と1979年の同様な二つの訴訟については、オットー・フランクのような被害者自身による告訴ではなかったため、言論の自由の見地から裁判所はその訴えを棄却した。

アンネの日記は捏造であると糾弾した二人のネオナチ、エルンスト・レーマーとエドガー・ガイスが逮捕された時、日記の真贋に関する議論は最も白熱した。彼等が上訴している間、歴史家チームがオットー・フランクと協議して原本の調査を行い、日記は本物であると結論したが、1978年にレーマーとガイスの上訴に関して、ドイツの内務省に属する犯罪調査局(Bundeskriminalamt: BKA)は、原本の紙とインクの種類の科学調査を依頼され、「日記をルーズリーフに書く際に使用されたインクは戦時中のものであるが、ルーズリーフに後からなされた訂正は黒、緑、青のボールペンによって書かれている」との報告を裁判所に提出した。BKAはボールペンでの訂正について詳細な証拠を外部に示さなかったが、日記の正当性を疑う人々はこの点に注目した。ボールペンは第二次世界大戦の終戦以前は一般的ではなかったためである。(ボールペンが一般的になったのは1950年以後である)

1986年、原本を保管するオランダ戦時資料研究所は、さらに詳細な科学的調査の結果を報告した。その際、どの部分がボールペンでの訂正部分なのか指摘するように求められたBKAは、その部分を指摘する事が出来なかった。オランダ戦時資料研究所自体は、アンネ・フランクのルーズリーフに挿入されたボールペンによって書かれた2枚の紙を確認していた。1987年、ハンブルグの心理学者で裁判所から鑑定依頼される筆跡のエキスパートであるハンス・オクルマンは、彼の母ドロシー・オクルマンがミナ・ベッカーと共同して日記の調査を行ったときに、そのボールペンのテキストをドロシーが書いたことを明らかにした。2003年に出版された修正版の日記では、問題となった2枚の紙の写真が掲載されている。


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